70年代アイドルの日陰的存在・藤圭子

70年代アイドルは、戦後25年が過ぎ日本の経済が十分に回復した時代に登場しました。
1960年代後半に猛威を振るった学生運動も1970年代になると一応落ち着きをみせ、明るい未来に向かって生きていこうという日本人のマインドが、アイドルという文化を花開かせたのでしょう。
しかし、光あるところには必ず影ができます。
そんなアイドル文化が花開く1970年代の日本歌謡界の影を、1人で背負っていたかのような女性がいました。

それが演歌歌手の藤圭子です。

※藤圭子はアイドルではないので、コラム記事として紹介します。

藤圭子プロフィール


女のブルース [ 藤圭子 ]

生年月日 1951年7月5日
芸能界入り 八洲秀章に誘われ上京した後、石坂まさを門下となる
キャッチフレーズ 演歌の星を背負った宿命の少女
黒のベルベットに身を包み純白のギターを持った宿命の少女
レコードデビュー 1969年9月25日(新宿の女)
主要音楽祭受賞歴
(最優秀新人賞)
主要音楽祭受賞歴
(大賞)
1970年日本歌謡大賞(圭子の夢は夜ひらく)
ゴールデンアロー賞
受賞歴
1970年ゴールデンアロー賞
紅白歌合戦出場回数
(2012年まで)
5回
代表曲
()内はオリコン最高順位
69年:新宿の女(9位)
70年:女のブルース(1位)
70年:圭子の夢は夜ひらく(1位)
70年:命預けます(3位)
72位:京都から博多まで(20位)
他多数
ホームページ https://www.sonymusic.co.jp/artist/KeikoFuji/profile/

藤圭子のデビューは宇多田ヒカル以上の衝撃?

藤圭子は、ご存知の通り平成の歌姫・宇多田ヒカルの母親であり、その宇多田ヒカルはファーストアルバム『First Love』で日本最高記録となる700万枚以上のセールスを打ちたて、衝撃のデビューを飾ります。
しかし、藤圭子のデビューもそれに匹敵するほど衝撃的なものでした。
藤圭子は、ファーストアルバム『新宿の女』でいきなりオリコン1位を獲得すると、そのまま20週に渡って1位をキープし、その『新宿の女』から1位の座を奪ったのは、なんと藤圭子セカンドアルバムの『女のブルース』でした。
結局、藤圭子は37週に渡ってオリコンアルバムチャート1位の座に君臨し、その後1位を獲得した“内山田洋とクールファイブ”とのコラボレーションアルバム『演歌の競演 清と圭子』を合わせると、42週連続1位という未だに破られていない大記録を打ちたてます。
そしてその勢いのまま、第1回の日本歌謡大賞を実質的なデビュー1年目※に獲得するのです。
※第1回日本歌謡大賞の開催は1970年11月9日で、1969年9月25日がデビューだった藤圭子は、選考期間の関係でおそらく1970年度が1年目扱いになるはず。

“怨歌”歌手・藤圭子

藤圭子の何がそんなに衝撃的だったのか、ここで簡単に説明します。
演歌において情念を歌うことはよくありますが、藤圭子が歌う演歌は情念を超えた怨念じみたものであり、藤圭子の代表作とされるデビューシングルからの3作品(新宿の女、女のブルース、圭子の夢は夜ひらく)は、いずれも人生に何があったんだと問いただしたくなるような深い恨みを歌ったものでした。
そんな藤圭子が歌う演歌は、作家の五木寛之に『怨歌(えんか)』と名付けられたほどです。
そんな“怨歌”を18歳の可愛い顔をした女性が歌っていたのですから、その衝撃は想像に難しくないでしょう。

藤圭子の歌唱法

藤圭子は歌っていた歌の内容もさることながら、歌い方にもまた大きな特徴がありました。
演歌にもPOPな演歌からド演歌と言われるようなものまで幅がありますが、藤圭子はド演歌をも超えた浪曲に近いような歌い方をしていたのです。(藤圭子の父親は浪曲師である)
この歌い方は、50年前の当時ですら古めかしかったと思われ、18歳の女性が歌うにはどう考えても不釣り合いなものでした。

藤圭子と石坂まさを

藤圭子がデビュー当時に歌っていた歌は、別の人物が歌詞を書いているので、歌の内容については藤圭子をそのまま投影したものではありません。
藤圭子の初期作品の歌詞を書き、また藤圭子を全面的かつ極めて強引な手法でプロデュースしてのは、作詞家“石坂まさを”という人物です。

この石坂まさをは愛人の子供で、父親が亡くなったために家の跡取りとして本妻に引き取られ、実の母でない母親と母子家庭の生活をするという極めて複雑な家庭環境で育ちました。
その上、若くして肺結核や網膜剥離などの病にもかかっていたため、人生に対し極めて悲観的であっても何ら不思議はなく、また社会性がイマイチ身についていない性格であったという証言もうなづけます。
師弟関係であった藤圭子をして、『この世で1番憎んででいるのは石坂まさを』と言わしめたほどの人物です。

一方、藤圭子も藤圭子でなかなかの人生を歩んでいました。
藤圭子の父親は前記した通り浪曲師、視力が弱い母親は曲師(浪曲師の横で三味線を弾く者)で、一家揃って旅芸人のような生活をしていました。
しかし浪曲だけでは生計が立てられず、紙芝居などで食い繋いだり、藤圭子も小学生時代から兄弟たちと納豆売りをするなどして生計を支えていました。
いずれにせよ、藤圭子の家庭はかなりの貧乏で、作曲家の八洲秀章に誘われ東京に出てきた当初は、家族そろってガード下に住んでいたほどです。

石坂まさをは、こういった藤圭子の境遇を自分に重ね合わせ、心血を注いで藤圭子をプロデュースしていくのでした。

藤圭子の歌は歌い継がれない名曲?

藤圭子と石坂まさをという負の境遇を背負った2人から生まれた“怨歌”は、『歌い継がれない名曲』と言えます。
歌の内容も歌手の歌い方も、あまりにも個性が強すぎて歌い継ぎようがないのです。
事実、藤圭子の歌は同時代にヒットした歌に比べると、若い世代への知名度が低くなっているようです。

70年代アイドルの陰

同い年の天地真理が国民的アイドルと言われ、世間に明るい話題を提供していた時代、藤圭子は既にバツイチで※、更には離婚した両親が藤圭子の稼いだお金を少しでも頂こうとワイドショーで泥沼の言い争いをしている始末でした。(※藤圭子は、内山田洋とクールファイブのボーカルの前川清と20歳になってすぐに結婚し(結婚発表当時は19歳)、21歳になってすぐに離婚している)
この同い年の藤圭子と天地真理は、1970年代前半における歌謡界の正に“光と影”と言える存在です。

当ブログはアイドルについて考えるブログですが、1970年代に花開いたアイドル文化の裏で、このような人がいたということだけは頭に置いていただきたいと思います。

そして・・・

藤圭子は、師匠である石坂まさをが亡くなった2013年に、後を追うように自ら人生に幕を閉じました・・・

アンケート

関連記事

20世紀アイドルのデビュー日一覧
70年代アイドルの記事一覧

<スポンサーリンク>