今回話題にする都倉俊一と言えば、NHK紅白歌合戦のエンディングで歌う『蛍の光』の指揮者を務め、文化庁の長官にまで成り上がった偉大な作曲家として知られています。
しかし、昔のアイドルファンの中では悪名高い人物として認識されているのです。
その理由は、彼が社長を務めた芸能事務所『エスワンカンパニー』にあるので、まずはエスワンカンパニーについての簡単な説明をします。
エスワンカンパニーは、都倉俊一が当時『劇団青年座』に所属していた南野陽子をアイドルとしてプロデュースしたいと思い作った芸能事務所と言われており、結局、南野陽子は女優としては劇団青年座、歌手・タレントとしてはエスワンカンパニーに所属することになります。
エスワンカンパニーには南野陽子の他にBaBeの2人も日芸プロジェクトから移籍してきて、1980年代後半当時はそれなりに存在感のある芸能事務所でした。
ちなみに会社名のエスワンは、都倉俊一の『俊』をイニシャルの『S(エス)』と読み、『一』を『ONE(ワン)』と読むところから来ています。
このエスワンカンパニーが所属アイドルに対して極端に安い報酬しか払っていなかったとして、アイドルファン(特に南野陽子ファン)の中ではブラック企業のような扱いを受けているのです。
エスワンカンパニー所属時代の収入について、南野陽子は月給3万円(あるいは6万円)、BaBeの2人は7万円だったと発言しています。
南野陽子もBaBeも全盛期はほとんど休みなく働いていたはずですから、時給に直したらとてつもない低賃金で、エスワンカンパニーと都倉俊一に対して悪名が高くなることも頷けます。
証言者が複数に及んでいるので、エスワンカンパニーの所属アイドルが低賃金で働かされていたことは噂などではなく真実だと思われます。
BaBeの2人が解散後表舞台に一切出てこない理由も、このような芸能界に対する不信感があるのかもしれません。(エスワンカンパニーの前に所属していた日芸プロジェクトも悪名高い芸能事務所として有名である)
南野陽子はエスワンカンパニーから独立する際にトラブルとなり、NHKの紅白歌合戦出場を邪魔されたとか、独立後すぐに映画でヌードになったのはエスワンカンパニー関係者が普通の仕事が入らないように妨害したためだなどとの噂がまことしやかに語られています。
南野陽子の独立に関する話については、インタビュアーの吉田豪がエスワンカンパニー及び都倉俊一のことをかなり厳しく糾弾していました。
しかし、私はこれらの話に昔から違和感を覚えています。
以下で示す、都倉俊一が作曲を担当した楽曲を御覧ください。
どうにもとまらない(山本リンダ)
狙いうち(山本リンダ)
ジョニィへの伝言(ペドロ&カプリシャス)
五番街のマリーへ(ペドロ&カプリシャス)
個人授業(フィンガー5)
ひと夏の経験(山口百恵)
冬の色(山口百恵)
ペッパー警部(ピンク・レディー)
S・O・S(ピンク・レディー)
カルメン’77(ピンク・レディー)
渚のシンドバッド(ピンク・レディー)
ウォンテッド(ピンク・レディー)
UFO(ピンク・レディー)
サウスポー(ピンク・レディー)
モンスター(ピンク・レディー)
透明人間(ピンク・レディー)
カメレオン・アーミー(ピンク・レディー)
あずさ2号(狩人)
私のハートはストップモーション(桑江知子)
どれもCMなどによく使われるような有名な曲ばかりで、どう考えても都倉俊一はお金に困るような人ではないのです。
1980年代当時はそこまでカラオケが普及していませんが、テレビやラジオで曲が流れても印税は入るのですから、当時の都倉俊一は黙っていても勝手にお金が入てくる状況で、むしろお金が余って仕方ないくらいだったかと思います。
『爆風スランプ』のファンキー末吉は、自身が作曲した『Runner』のカバー曲がCMに採用された際に八王子に家が建つぐらいのお金を得たと発言しており、楽曲の印税はこれほど強力なのです。
小室哲哉のような例(一時期は日本4位の高額所得者だったが後に破綻)もあるので一概には言えませんが、普通に考えて都倉俊一がお金に困るようなことはなく、自身が社長を務める所属事務所のアイドルを低賃金でこき使うような必要性が感じられないわけです。
当然、都倉俊一が南野陽子のマネージャーとして現場に行くわけはないですし、芸能事務所を経営するノウハウも持っていないと思うので、事務所の経営は他人に任せていた可能性も考えられます。
実際にエスワンカンパニーの設立には、テレビ番組制作会社、レコード会社、広告代理店などが関わっていたらしく、実質的な経営は別の人がして、その人達がブラック企業な体質を作り上げたように私は思います。
それを証拠に、近年になって南野陽子が過去にお世話になった人と会うというコンセプトの番組で都倉俊一と会っているのです。
もし南野陽子がエスワンカンパニーの社長だった都倉俊一に対して恨みを持っていたら、お世話になった人として都倉俊一は選ばず、別の誰かを選ぶのではないでしょうか?
そして都倉俊一の人間性に大きな問題があるのなら、ここまで異例の出世を果たせたのかも疑問です。
もし出来たとしても批判の声がもっと挙がっていておかしくありません。
都倉俊一がエスワンカンパニーの社長であったことは事実なので、アイドルを低賃金でこき使った責任の一端はありますが、エスワンカンパニーに関する問題の全てを都倉俊一に押し付けることは少し違う気がします。
※エスワンカンパニーは、南野陽子の独立およびBaBeの解散直後となる1990年頃に解散しています。
コメント
南野陽子さんは『週刊プレイボーイ』1994年11月1日号掲載の記事の中で、「前の事務所の絡みで、あるちょっと怖い人達に、都内でかなりの家が一軒建つぐらいのお金を納めなければならなかった」「仕事場に知らない人が来てお金の返済を迫られたり、事務所の女の子と一緒に、もう死んじゃおうかなんて言い合ったこともあった」と証言されています。なぜ南野さんがそのようなとんでもない額の借金を背負わされて苦労する羽目になったのか、その原因がエスワンカンパニー代表の都倉氏にあると思われている以上、ファンから叩かれるのは避けられないでしょう。
そんな問題を理解した上での記事でしょ
そういった問題が大きければ大きいほど、記事で書いた南野陽子が都倉俊一とテレビ番組で会ったことに対する違和感が大きくなってしまうのです。
しかもその番組は『ありがとうを3.11に伝えよう委員会』(2022年3月12日放送)という番組名で、南野陽子は都倉俊一にありがとうを伝えたいとのことでした。
南野陽子がエスワンカンパニーに恨みにも近い嫌悪感を抱いていることは確かかと思います。
しかしその恨みは、ファンが思うほど都倉俊一へは向かっていない可能性が考えられるわけです。
南野陽子のファンはエスワンカンパニーの悪行を都倉俊一の悪行とイコールで結ぶ傾向が強いのですが、南野陽子的には『エスワンカンパニーの悪行=都倉俊一の悪行』となっておらず、真の悪人は別なのではないかと思えるのです。
南野さん的には、都倉氏個人に対しては、おそらく管理人さんが仰る通りなのでしょう。一方、事務所に対しては、事務所として機能しておらず、スタッフからも愛されていなかった、仕事を続けられないと思ったと証言されています。事務所の運営内部が相当ブラックだったのは間違いないでしょう。
しかし上述の管理人さんの御意見も踏まえた上ですが、法人としての代表である以上は、ビッグモーターの社長などと同じで責任を負う立場であり、「ファンの立場」からの都倉氏への怨恨感情は今後も変わることはないでしょう。