工藤静香プロフィール
生年月日 | 1970年4月14日 |
芸能界入り | 子役→『第3回ミス・セブンティーンコンテスト』特別賞 |
キャッチフレーズ | - |
レコードデビュー | 1985年1月21日(ス・キ・ふたりとも!)※セブンティーンクラブとして 1986年7月21日(お先に失礼)※おニャン子クラブとして 1987年5月7日(時の河を越えて)※うしろ髪ひかれ隊として 1987年8月31日(禁断のテレパシー)※ソロとして |
主要音楽祭受賞歴 (最優秀新人賞) | - |
主要音楽祭受賞歴 (大賞) | - |
ゴールデン・アロー賞 受賞歴 | - |
主要映画賞受賞歴 (主演賞、助演賞、新人賞) | - |
ドラマアカデミー賞受賞歴 (主演賞、助演賞、新人賞) | - |
紅白歌合戦出場回数 (2023年まで) | 9回 |
代表曲 ()内はオリコン最高順位 | 88年:抱いてくれたらいいのに(3位) 88年:FU-JI-TSU(1位) 88年:MUGO・ん…色っぽい(1位) 88年:恋一夜(1位) 89年:嵐の素顔(1位) 89年:黄砂に吹かれて(1位) 90年:くちびるから媚薬(1位) 91年:メタモルフォーゼ(2位) 92年:めちゃくちゃに泣いてしまいたい(4位) 93年:慟哭(1位) 94年:Blue Rose(8位) 96年:激情(6位) 97位:A.S.A.P.(3位)※石橋貴明とのデュエット『Little Kiss』として 98年:きらら(6位) 98年:in the sky(きららのカップリング曲) 他多数 |
目次
2、おニャン子クラブ会員番号38番
3、『うしろ髪ひかれ隊』結成!!
4、満を持してのソロデビュー
5、本当のデビューは?
6、セブンティーンクラブとおニャン子クラブの共演歴
7、工藤静香と国生さゆりの関係
8、ヒット曲メーカー
9、突然の結婚、相手は・・・
10、工藤静香のアイドルとしての系譜
11、モノマネの対象
12、芸術家・工藤静香
13、私の好きな工藤静香楽曲
14、工藤静香のMV(公式)
15、クイズ
16、工藤静香楽曲の人気投票&ランキング
17、ホームページ・SNS
18、関連記事
おニャン子クラブ会員番号38番
工藤静香は16歳の高校1年生のとき、伝説的な素人アイドル『おニャン子クラブ』のメンバーとなりました。
おニャン子クラブを輩出した『夕やけニャンニャン』では、『ザ・スカウト アイドルを探せ!』という名物コーナーがあり、このコーナーの審査で高得点を獲るとおニャン子クラブのメンバーになることができました。
工藤静香も他のおニャン子クラブメンバーの例に漏れず、このコーナーで合格しおニャン子クラブ入りを果たします。
会員番号は38番で、1つ前の37番は大貫かおり、1つ後の39番は高畠真紀となります。
『うしろ髪ひかれ隊』結成!!
高井麻巳子(秋元康夫人)と岩井由紀子(ゆうゆ)の2人組として、おニャン子クラブ内ユニットとして絶大な人気を誇った『うしろゆびさされ組』が1987年4月5日に解散し(高井麻巳子のおニャン子クラブ卒業により)、その後継的なグループとして名前を一部引き継ぎ結成されたのが『うしろ髪ひかれ隊』でした。
メンバーはおニャン子クラブ後期の主要メンバーである工藤静香、生稲晃子、斉藤満喜子の3人が選ばれ、『うしろゆびさされ組』が担当していたアニメ『ハイスクール!奇面組』の主題歌も引き継ぎます。(OP曲『時の河を越えて』→『あなたを知りたい』、ED曲『うしろ髪ひかれたい』→『立つ鳥跡を濁さず』)
更に『ハイスクール!奇面組』終了後に同じ時間帯で放送されたアニメ『ついでにとんちんかん』の主題歌も担当。(1期OP『ごめんねカウボーイ』、1期ED『メビウスの恋人』、2期OP『ほらね、春が来た』、2期ED『誰も知らないブルーエンジェル』)
この間におニャン子クラブは解散してしまいますが、『うしろ髪ひかれ隊』はおニャン子クラブ解散以降も継続する唯一のユニットとして活動をしていきました。
満を持してのソロデビュー
『うしろ髪ひかれ隊』のデビュー日は1987年5月7日ですが、この日からあっという間の同年8月31日に工藤静香は『禁断のテレパシー』でソロデビューを果たします。
時間的な猶予を考えると、工藤静香のソロデビューは『うしろ髪ひかれ隊』結成当初から決まっていたのかもしれません。
『うしろ髪ひかれ隊』の他の2人もソロデビューをしますが、工藤静香より1年近く遅かったことを考えると、工藤静香の歌唱力がグループ内で飛び抜けていたものと思われます。
そのような事実もあってか、工藤静香は歌番組に数多く出演し人気は急上昇、あっという間に、中山美穂、南野陽子、浅香唯と共に『アイドル四天王』と称されるほどの人気アイドルとなりました。
このような工藤静香個人の人気急上昇もあってか、『うしろ髪ひかれ隊』は1988年5月2日にひっそりと活動を休止し、そのまま活動が再開されることはありませんでした。
本当のデビューは?
工藤静香は、
ソロデビューが1987年8月31日(禁断のテレパシー)
うしろ髪ひかれ隊でのデビューが1987年5月7日(時の河を越えて)
と、1985年6月の同じ週にデビューした他のアイドル四天王に比べ、デビューが少し遅いと思っている人も多いかと思います。
しかしこれは間違いで、実は、工藤静香は『セブンティーン・クラブ』というアイドルグループで1985年にデビューしているのです。
セブンティーン・クラブは、1984年のミス・セブンティーンコンテストで決勝大会まで進出した工藤静香、木村亜希、柴田くに子の3人で結成されたアイドルグループで、1985年1月21日に『ス・キ・ふたりとも! (鈴木くんと佐藤くんのテーマ)』という曲でデビューしました。
この『ス・キ・ふたりとも! (鈴木くんと佐藤くんのテーマ)』は、スナック菓子『鈴木くん』と『佐藤くん』のCMソングで、TV番組などで披露されたこともあります。
更に工藤静香は、小学校のときには子役事務所として有名な『劇団東俳』にも所属しており、おニャン子クラブ在籍当時から既に芸歴はかなりあったのです。
以上の点を踏まえると、工藤静香はアイドル四天王の中で1番遅いどころか、1番早くデビューしているわけです。
このことは隠されていたわけでもなく、おニャン子クラブに加入当時からアイドルファンには周知の事実でした。
そもそも、おニャン子クラブのオーディション(夕やけニャンニャンでの公開オーディション)のときに、工藤静香自身がこのことを言っていた記憶があります。
ちなみに、この『セブンティーン・クラブ』のメンバーである木村亜希は、後に清原和博の奥さんとなった人です。(覚醒剤騒動の際に離婚)
セブンティーンクラブとおニャン子クラブの共演歴
1980年代はアイドルの水泳大会が頻繁に行われていました。
工藤静香もセブンティーンクラブ時代に1度アイドルの水泳大会に参加しているのですが、ほんの一瞬しかテレビに映らなくてショックを受けたと後年に語っています。
実は、この回の水泳大会(第16回オールスター紅白水泳大会)には、おニャン子クラブも参加しています。
おニャン子クラブがグループとして参加したアイドルの水泳大会はこの1回だけですが(おニャン子クラブ単体で行った水泳大会などは除く)、その1回で工藤静香はおニャン子クラブと共演していたわけです。
これ以外にもグループ加入前の工藤静香とおニャン子クラブのメンバーが共演している可能性はありますが、セブンティーンクラブとおニャン子クラブのグループ同士で共演がハッキリ分かるものは第16回オールスター紅白水泳大会が唯一になるかと思います。
工藤静香と国生さゆりの関係
工藤静香は、セブンティーンクラブのメンバーとなった後に所属レコード会社であるCBS・ソニーの寮に住んでいました。
そこには同じレコード会社に所属する国生さゆりもおり、工藤静香は毎回のように台本の読み合わせなどに付き合わされていたようです。
このエピソードがいつ頃のことか明確には分かりませんが、国生さゆりが女優の仕事をするようになってからのことなので、おそらくは工藤静香がおニャン子クラブに加入した後の話と思われます。
国生さゆりはおニャン子クラブの結成メンバーの1人で会員番号8番、一方の工藤静香はおニャン子クラブが結成して1年以上が経過して加入した会員番号38番です。
このような先輩後輩の関係なため、国生さゆりは工藤静香のことをぞんざいに扱っていたそうです。
しかしよくよく考えてみると、この2人は同じオーディション(第3回ミス・セブンティーンコンテスト)から芸能界入りした同期の関係となります。
更に言えば、第3回ミス・セブンティーンコンテストで特別賞を獲得しセブンティーンクラブのメンバーに選ばれた工藤静香に比べ、国生さゆりは何の賞も獲得できずになかなかデビューできずにいたので、工藤静香のほうが格上と捉えることもできます。
年齢が国生さゆりのほうが4歳上だったため上の立場になったようですが、工藤静香は国生さゆりとの関係に納得のいかない部分があったのかもしれません。
ちなみに、工藤静香はこの腹いせに国生さゆりの靴をパクったそうです。(^_^;)
ヒット曲メーカー
工藤静香は1980年代終盤から1990年代序盤にかけて最大クラスのヒット曲メーカーで、この時期に出したシングル曲で11曲のオリコンチャート1位を生み出します。
1988年の年間チャートでは、女性1位となる6位に『MUGO・ん…色っぽい』(1988年8月24日発売)がランクイン。
1989年の年間チャートでは、
6位:『恋一夜』(1988年12月28日発売)
8位:『嵐の素顔』(1989年5月3日発売)
9位:『黄砂に吹かれて』(1989年9月6日発売)
とトップ10に3曲もランクインし、女性アイドルとして圧倒的な人気を見せます。
1990年も『くちびるから媚薬』(1990年1月10日発売)が8位に入るなど、この時期の工藤静香はアイドル問わず最大クラスのヒット曲メーカーだったことは疑いようがありません。
突然の結婚、相手は・・・
上記のような人気も落ち着き、アイドルとしての活動も遠に終えていた2000年、工藤静香はSMAPのメンバー・木村拓哉とできちゃった結婚をします。
当時の木村拓哉は、日本でもっとも人気のある男性芸能人として君臨していたので、この突然の結婚発表については工藤静香への批判的な意見が多くなり、バッシングと言っていいほどの騒動にまで発展しました。
確かに当時の木村拓哉の人気は凄まじく、ドラマを出れば必ず高視聴率をとっていましたし、何よりもジャニーズ事務所という恋愛に厳しいことで有名な芸能事務所所属で、更に国民的アイドルとまで称されたSMAPのメンバーでもありました。
このような人と突然結婚をしたら、おそらく誰であっても大なり小なり騒動は起こっていたことでしょう。
しかし、前記したとおり工藤静香も結婚発表の10年前はトップアイドルで、それは正に木村拓哉が芸能活動をはじめた青年期に重なります。
男からしたら、自分の青年期に活躍したトップアイドルと結婚できるなんて最高の経験でしかなく、この点を踏まえると、工藤静香へのバッシングは見当違いも甚だしいとしか言いようがありません。
工藤静香のアイドルとしての系譜
同じアイドル四天王の南野陽子が、天地真理、桜田淳子、松田聖子といった清純さを売りにした正統派アイドルの系譜なら、工藤静香は山口百恵、中森明菜といった不良っぽさを売りにした正統派に対抗するアイドルの系譜でしょう。
こちらの系譜は歌唱力の高さが特徴で、また声質(特徴的な低音)などにも共通点があります。
この系譜に属す山口百恵、中森明菜、工藤静香は、いずれ劣らずの歌姫で時代を超えたアイドルと言えます。
モノマネの対象
工藤静香の下がった眉をした困り顔メイクや特徴的な話し声は、当時よくモノマネの対象になっていました。
特に振り付けが特徴的だった『嵐の素顔』は、モノマネ番組などでも度々使われていた記憶があります。
この工藤静香のモノマネで代表的な人物といえば、同じ80年代アイドルの森口博子です。
当時、仕事が減ってきていた森口博子は、この工藤静香のモノマネをきっかけにバラドルとして成り上がっていき、ついにはNHK紅白歌合戦に6回も出場するまでの成功を収めました。
ちなみに森口博子は、工藤静香の夫である木村拓哉と『夢がMORIMORI』で共演しております。
芸術家・工藤静香
工藤静香は絵が得意なことでも知られ、芸術作品の公募式展覧会として有名な二科展では20回以上入選し、2010年には更に上の特選に選ばれたこともあります。
私は絵に全く詳しくないですが、二科展での入選回数や特選されたことを考えると、それなりの実力があると思われ、少なくとも芸能人の中ではトップレベルの才能があるものと思われます。
『天は二物を与えず』ということわざがありますが、工藤静香には、二物どころか三物も四物も与えられているように感じます。(一物:外見、二物:歌唱力、三物:画力、四物:結婚運)
できれば1つくらい分けてほしいものです。(^_^;)
私の好きな工藤静香楽曲
私が好きな工藤静香の楽曲は、
『MUGO・ん…色っぽい』
です。
『MUGO・ん…色っぽい』が好きというより、それ以降の楽曲を工藤静香がテレビで披露する際、スナックの女感が強すぎて当時の純情な自分にはなかなか受け入れられなかったのです。(笑)
工藤静香のMV(公式)
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2018年08月24日:記事の作成
2019年10月16日:ブログの移転
2023年02月23日:SNS情報の記載、動画の埋め込み、紅白歌合戦出場回数の修正
2023年03月03日:『セブンティーンクラブとおニャン子クラブの共演歴』、『工藤静香と国生さゆりの関係』の項目を追記
2024年01月04日:オススメ商品の削除、埋め込み動画の一部削除、アンケート内容の変更
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