元祖バラドル!『松本明子』

松本明子プロフィール

80年代アイドルの松本明子

生年月日 1966年4月8日
芸能界入り 『スター誕生!』合格
キャッチフレーズ アッコ、とんがってるね
レコードデビュー 1983年5月21日(♂×♀×Kiss)
主要音楽祭受賞歴
(最優秀新人賞)
主要音楽祭受賞歴
(大賞)
ゴールデン・アロー賞
受賞歴
1995年芸能賞
主要映画賞受賞歴
(主演賞、助演賞、新人賞)
ドラマアカデミー賞受賞歴
(主演賞、助演賞、新人賞)
紅白歌合戦出場回数
(2023年まで)
0回
代表曲
()内はオリコン最高順位

スポンサーリンク

目次

松本明子の上京

松本明子は、生まれ育った高知県の中学校を卒業した後、アイドルを目指して東京へと上京してきます。
この光景は朝の情報番組『ズームイン!!朝!』で放送され、VTRも何度も使われているので知っている人も多いかと思います。
自分はこの映像について、後述するオーディションに合格した後の映像なのだと長年思っていたのですが、実際は芸能界入りに対して何の目処もなく上京してきたそうです。
この行動は東京近郊出身の自分にはない発想で、正直驚きを隠せません。
入学した高校は芸能人御用達で有名な堀越学園ですが、普通に受験をして入ったため芸能コースではなく普通科の在籍で、住まいは親戚の家に居候していたそうです。

ナベプロ唯一『スター誕生!』スカウト

上京後の松本明子は『ホリプロタレントスカウトキャラバン』など様々なアイドルオーディションを受け、『第2回 HIDEKIの弟妹募集!!全国縦断新人歌手オーディション』では全国大会に進出しています。(グランプリは石川秀美)
最終的には『スター誕生!』で合格して、渡辺プロダクション(ナベプロ)への所属が決まり、堀越学園では芸能コースへのクラス替え、住まいは事務所の寮に引っ越しと芸能活動の準備も整います。

以下で示す記事に詳しいですが、『スター誕生!』は反渡辺プロダクションという思想のもとに作られているので、渡辺プロダクションが決戦大会の公開スカウトに参加することはありませんでした。
しかし、松本明子が参加した頃(1982年の第44回決戦大会)にはこういった思想も崩れ、渡辺プロダクションも決戦大会のスカウトに参加するようになっていました。
この『スター誕生!』が1983年9月25日に終了(決戦大会によるスカウトはその半年前に終了)している関係で、松本明子は渡辺プロダクションが『スター誕生!』で唯一獲得したタレントとなっています。

ちなみに松本明子が合格した第44回決戦大会には、後に歌手として成功する本田美奈子と徳永英明が参加していますが、2人とも落選でした。Σ(゚Д゚)

多くのアイドルを輩出した『スター誕生!』についてと出身者の一覧
今まで書いてきたアイドルの松田聖子と宮沢りえを除き、ピンクレディーの2人、山口百恵、桜田淳子、森昌子、中森明菜、小泉今日子の7人には共通点があります。 それは、全員 『スター誕生!』 出身であることです。 ということ...
スポンサーリンク

デビュー当時の松本明子

松本明子が所属した渡辺プロダクションは、1960年代に業界を牛耳るほどの力を持つ芸能事務所だったのですが、1980年代にはその勢いはなく、事務所のプッシュを受けた松本明子のデビュー曲もオリコン最高順位131位しか獲得できませんでした。
2枚目のシングルも全く売れず、アイドル歌手としての松本明子は明らかに低調でしたが、ラジオでは『笑福亭鶴光のオールナイトニッポン』にレギュラー出演しています。
この『笑福亭鶴光のオールナイトニッポン』では、笑福亭鶴光に同じレギュラーメンバーの元トライアングルの小森みちこや柳沢純子と共に『やけっぱちトリオ』や『トリオ・ザ・ゴミ』などと卑下されていました。
もともと『笑福亭鶴光のオールナイトニッポン』では、松本明子たちの前に日髙のり子、浜田朱里、坂上とし恵がレギュラー出演して『ガケっぷちトリオ』と呼ばれていたので、それを踏襲した形です。

例の問題発言に関わる真実

1984年4月1日(3月31日の深夜枠)、この『笑福亭鶴光のオールナイトニッポン』とテレビ番組の『オールナイトフジ』が2元生放送を行い、ラジオ側のレギュラーだった松本明子も当然出演することになります。
そこで、笑福亭鶴光と片岡鶴太郎にそそのかされて松本明子は女性の性器を表す卑猥な言葉を口にするのです。
この話は有名なので多くの人が知っているでしょう。

松本明子は、この発言が原因で『芸能界から干されて2年間全く仕事ななかった』、『関西のラジオだけが面白がって使ってくれた』などとメディアで度々発言していますが、この話はかなり盛っており、ほとんど創作に近いものとなっています。(問題発言をしていることは間違いないが)
この件について松本明子は、100あった仕事が0になっているような言い方をするのですが、先述したように当時の松本明子はそもそも売れていないのです。
渡辺プロダクションという大手芸能事務所所属だったためバラエティ番組などにちょこちょこ出演することはあっても、問題発言をする前の松本明子を明確に覚えている人はアイドルファンでも珍しいレベルのマイナーアイドルの1人でしかありませんでした。
つまり、問題発言をする前の松本明子の仕事量は100ではなく3ぐらいしかなかったわけです。
そもそも1年目のアイドルは、デビュー時に受ける事務所のプッシュや新人賞争いに関わる仕事もあるのでそれなりに仕事量がありますが、2年目になると仕事が大幅に減るのはよくあることで多くのアイドルが経験していることと言えます。

そして、問題発言後に松本明子の仕事が0になったかというとそれもまた事実と異なります。
問題発言をした『笑福亭鶴光のオールナイトニッポン』には(およそ4ヶ月後の)8月に復帰し、同月行われた公開録音のイベント『真夏の悪夢 トリオ・ザ・ゴミサマーコンサート 燃えろ青春! 気分は焼却炉』にも出演していました。
その前となる1984年6月10日には3枚目のシングル『夏色のギャルソン』を発売し、そのプロモーション活動としてテレビにも何度か出演しています。
この時期に大阪で大きなイベント活動をしていたという話もあるようです。

『笑福亭鶴光のオールナイトニッポン』復帰後は、謹慎期間は完全に解けてテレビにも普通に出演し、いくつかの番組ではレギュラー出演もしています。
特に1985年2月9日公開の映画『ユー・ガッタ・チャンス』、1985年11月23日公開の映画『タンポポ』に出演という日時が明確な芸能活動もあり、2年間仕事がなかったという事実は一切確認できません。
自身でも1984年10月13日から1985年3月30日放送のコント番組に出演していたとブログに書いており、発言が矛盾しているのです。

松本明子『いい加減にしてみました』
伊東四朗さん、三宅裕司さんのコントライブ『いい加減にしてみました3』を観てきました。ゲストは沢口靖子さん。 こんな名コンビの生コントを観せて頂けるなんて、もう…

つまり、問題発言によって松本明子に悪影響があったとしても、せいぜい放送していたフジテレビとニッポン放送にしばらく(数ヶ月)出れなかった程度で、実際のところは3が2になったぐらいの影響しかなかったと思われます。
問題発言を面白がって大阪のラジオ局が使ってくれたのなら、むしろ3が4ぐらいになっているのかもしれません。(1985年4月から1986年3月までMBSヤングタウンの金曜日にレギュラー出演している)
いずれにせよマイナスの影響はほとんどなかったものと思われ、その後にバラエティで活躍したことも含めれば、プラスの効果のほうが遥かに大きかったように思います。
そもそも松本明子は上記した3枚目のシングルで歌手活動が一旦終了しているので、レコードの販売促進を伴うプロモーション活動(メディア出演)がなくなることも当然です。
これも本当か嘘か分からないのですが、歌手活動をやめる決断は自身でしたと発言しているので、それが本当なら仕事が激減したのはその影響であり、問題発言の影響ではないと考えられます。

以上のように、松本明子が問題発言の影響で2年間干され仕事が全くなくなったという話は、盛っているどころかハッキリ嘘と言えるに近いぐらいデタラメな話なのです。
松本明子は、この話に関連付けて学校に毎日通えるようになり皆勤賞をもらったとの話も良くしていますが、おそらくこれも嘘でしょう。(上記した松本明子のブログに制服を着てスタジオに通っていたと書いてある)
その他、テレビのトーク番組でグラビアの仕事は一切なかったと言っていましたが、『週刊プレイボーイ』、『平凡パンチ』、『GORO』など、当時のメジャーグラビア誌で松本明子は水着グラビアを飾っています。

このように、松本明子はバラエティ番組で話を嘘レベルに盛ってしまうので信じることは避けたほうがよさそうです。(;^_^A

スポンサーリンク

バラエティタレントへの転身?

問題発言に関係なく、アイドルとしての仕事がなかなかうまく行かなかった時期に、松本明子は中山秀征に誘われバラエティタレントに転身します。
当時の中山秀征は、『笑福亭鶴光のオールナイトニッポン』を引き継いで同番組のパーソナリティを務めた『ABブラザーズ』というお笑いコンビで活動しており、このABブラザーズを含めた渡辺プロダクションの若手お笑いタレントを集めた『BIG THURSDAY』という劇団でも活動していました。
『BIG THURSDAY』には、後に『ホンジャマカ』となる石塚英彦と恵俊彰の2人も在籍するなど、今では一種の伝説的な劇団なのですが、松本明子もこの劇団に参加することになるのです。

このようにしてアイドルからバラエティタレントに転身したと松本明子は自身の経緯について説明しているのですが、この話にもだいぶ創作があると言わざるを得ません。
上記してきたように、松本明子はデビュー当時からかなりバラエティ寄りのアイドルだったので、アイドルをやめてバラエティタレントになったというよりも、自然とバラエティタレントにシフトしたと考えたほうが正しいと考えられます。

ちなみに、中山秀征とは後に人気深夜番組『DAISUKI』で共演しています。

ものまねタレント・松本明子

1973に始まった当初の『オールスターものまね王座決定戦』は、本当にスターが出演しており、第1回目の優勝者は森昌子でした。
それが次第にものまねを専門とするタレントの出演が増え、1985年には笑いに特化した『爆笑!スターものまね王座決定戦』もスタートします。
1980年代の終盤からは、お笑いスター誕生出身のコロッケ、『ぎんざNOW!』から誕生したザ・ハンダース出身の清水アキラ、コミックバンド出身のビジーフォー、素人モノマネ番組出身の栗田貫一の4組が『ものまね四天王』と呼ばれてモノマネブームが起こり、それを受けて『ものまね女四天王』も結成されました。

松本明子は、その『ものまね女四天王』に松居直美、篠塚満由美、しのざき美知とともに選ばれ、1990年には見事『オールスターものまね王座決定戦』で優勝しています。
松本明子が優勝した回は番組史上最高の32.3%の視聴率を獲得し(『爆笑!スターものまね王座決定戦』の回は除く)、まさにモノマネブームの全盛期に活躍するなど、バラエティタレントとして松本明子が最初に注目を集めた活動は、ものまねタレントとしてでした。

元祖バラドル!!

松本明子は、アイドル冬の時代となる1990年代にバラエティに上手く順応した元アイドルを称する『バラドル』と呼ばれる存在で、その元祖的存在です。

そもそも1970年代から、歌手や女優として芽が出ずにバラエティ番組を中心に活動する売れないアイドルは存在していました。
しかし、それはただの売れないアイドルでしかありません。
しかし1990年代前半に活躍したバラドルは、単純にアイドルとして芽が出ずにバラエティタレントとして活動している人とは少し違い、本格的なアイドルよりも人気を得る芸能界の一大勢力となるのです。

バラドルを無理矢理に定義付けするのなら、アイドルとしてデビューしバラエティタレントに転向したということはもちろん、既存のアイドル以上に活躍していることが条件になるかと思います。
実際にバラドルと呼ばれた井森美幸や森口博子は、同期のアイドル(元アイドル)などよりよっぽどテレビでの露出が多く、彼女たち以上のメディア露出を誇った同期は中山美穂ぐらいしか思い浮かびません。
それを踏まえると、実際にバラドルと呼べる人は、

松本明子
井森美幸
森口博子
山瀬まみ
島崎和歌子

の5人程度だったかと思います。
ちなみに、この5人は1991年の『新春かくし芸大会』に全員出演しています。

女優・松本明子

バラドル時代の松本明子は、意外にゴールデンタイムの連続ドラマに多数“主演”しています。
松本明子が主役クラスで出演した連続ドラマを以下でまとめたのでご覧ください。

放送日ドラマ名放送局
1995年10月18日~12月13日たたかうお嫁さま日本テレビ
1996年7月3日~9月11日グッドラック日本テレビ
1997年7月6日~9月28日オトナの男TBS
1997年1月9日~3月20日彼女たちの結婚フジテレビ
1998年1月7日~3月18日サービス日本テレビ
1999年4月17日~6月19日プリズンホテルテレビ朝日
2002年7月10日~9月4日東京庭付き一戸建て日本テレビ
2003年5月19日~6月19日女神の恋NHK

以上のように松本明子は、当時、ゴールデンタイムで連続ドラマをほとんど作っていなかったテレビ東京を除き、全キー局の連続ドラマで主演クラスの出演を果たしているのです。
これは他のバラドルには見られない現象で、松本明子の突出した特徴と言えます。

『進め!電波少年』への出演

松本明子を語る上で欠かせないテレビ番組があります。
それは、アポなしロケで一斉を風靡した伝説的な番組『進め!電波少年』です。(後に何度か改名しているが番組内容に大きな変わりはない)
この番組で特に話題になったのは長期企画のヒッチハイクロケで、今や芸能界のトップクラスタレントとなった有吉弘行も、このヒッチハイク企画の出身です。
『進め!電波少年』が取り入れたドキュメント要素のあるバラエティはとても斬新で、『いきなり!黄金伝説。』や『ウンナンの気分は上々。』など他局のバラエティ番組にまで普及し、日本のバラエティ界全体に大きな影響を与えました。
そんな伝説的な番組で、最初から最後までMCとして出演し続けたのが松本明子だったのです。

上記した松本明子のドラマ出演一覧で日本テレビの作品が多い理由も、当時の日本テレビで看板番組にまで成長していた『進め!電波少年』に出演していた影響が大きいものと思われます。
以上のように『進め!電波少年』は、松本明子最大の代表作と言えるものとなっています。

現在の松本明子

昔ほどではないにせよ現在も松本明子はバラエティ番組を中心に活躍しています。
私生活では、俳優である原田龍二の弟の本宮泰風と1998年に結婚し、2000年には第一子を出産しました。
原田龍二とはドラマで何度か共演しており、それが縁で知り合ったものと思われます。

近年は、不作と呼ばれた同期(不作の83年組)たちとイベントなどを行い、相も変わらず、問題発言について大盛りに盛ったトークをしてファンを楽しませています。(;^_^A

スポンサーリンク

松本明子の動画(個人チャンネル)

クイズ

只今制作中・・・ 少々お待ちください。m(_ _)m

アンケート

2023年4月、ブログのリニューアルに伴いアンケートを新しいものに差し替えました。
投票数はリセットされているので、過去に投票した人も再びの参加をお待ちしております。
※90組以上から選択可能な本格的なアンケートは『こちらのページ』から!
あなたの好きな80年代アイドルは?(簡略版)

選択肢が足りない(増やす)
完全版へGO!
※こちらのアンケートは簡略版です。以下で示す『完全版』が本番のアンケートになりますので、そちらでの投票もお願いします。

※その他のアンケート・人気投票は『アンケート記事の一覧』から!

ホームページ・SNS

ホームページ:所属事務所
ブログ:♂×♀×Kiss
X(旧Twitter):@akkotongattelne
Instagram:akkotongattelne
You Tube:アムズチャンネル
その他:Facebook

関連記事

目次に戻る
20世紀アイドルのデビュー日一覧
20世紀アイドルの生年月日一覧
80年代アイドルの記事一覧

スポンサーリンク
【更新履歴】
2019年11月02日:プロフィール情報の記載
2022年02月28日:記事(文章部分)の一部記載
2023年03月23日:SNS情報の記載、動画の埋め込み
2024年02月27日:記事(文章部分)の完成、オススメ商品の削除、埋め込み動画の一部削除
1983年デビュー
プロフィール
究極DD(管理人)
【自己紹介】
名前:究極DD
年齢:思ったより若い
所在地:関東平野(情報が関東に偏る)
性格:生まれ持ってのデータ厨
好きなもの:女性アイドル
好きな番組:ザ・ベストテン
好きなドラマ:大映ドラマ
嫌いなもの:男性アイドル
専門分野:90年代の女性アイドルグループ
Twitter:https://twitter.com/idol20th
【サイト説明】
近年、You Tubeなどの動画サイトの影響か、中高生などの若い世代に70年代アイドル・80年代アイドル・90年代アイドルなどのファンが増えているそうです。
その一方で、インターネット環境の変化からサイトの閉鎖が相次ぎ、かつてネット上で書かれていたアイドルの情報が損失していっています。
自分はアイドルオタクというほどアイドルにハマっていたわけではありませんが、若い世代に20世紀に活躍したアイドルたちのことを語り継いでほしいので、自分の知り得るアイドルの情報を今のうちに書き残していきたいと思います。
アイドルブームの時代を生きた一般人目線のアイドル論を是非ご覧ください!
※執筆依頼は、『執筆依頼について』を参照してください。
フォローする
究極DD(管理人)をフォローする
20世紀アイドルの肖像

コメント

タイトルとURLをコピーしました