30億円が水の泡?『少女隊』

少女隊プロフィール

80年代アイドルの少女隊

メンバー生年月日 ミホ:1969年8月31日
レイコ:1969年10月18日
チーコ:1969年12月8日 ※途中脱退
トモ:1972年11月3日 ※途中加入
芸能界入り 少女隊オーディション
キャッチフレーズ 胸騒ぎ、ザワ、ザワ、ザワ
レコードデビュー 1984年8月28日(FOREVER〜ギンガムチェックstory〜)
主要音楽祭受賞歴
(最優秀新人賞)
主要音楽祭受賞歴
(大賞)
ゴールデン・アロー賞
受賞歴
主要映画賞受賞歴
(主演賞、助演賞、新人賞)
ドラマアカデミー賞受賞歴
(主演賞、助演賞、新人賞)
紅白歌合戦出場回数
((2023年まで)年まで)
0回
代表曲
()内はオリコン最高順位
85年:素直になってダーリン(14位)
85年:Bye-Byeガール(13位)
他多数

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目次

少女隊の名前と結成メンバー

少女隊の結成メンバーはミホ、レイコ、チーコの3人なのですが、この3人は同い年でデビュー当時は中学生3年生でした。
このことが少女隊という名前の由来になっているわけですが、当然、当時人気を得ていたジャニーズ事務所所属の男性アイドル『少年隊』の影響もあったものと思われます。

少年隊のレコードデビューは1985年12月12日(仮面舞踏会)だが、1982年から活動しており『夜のヒットスタジオ』にはデビュー前に10回程度出演するなど既に大きな人気を得ていた。

30億円のプロモーションでデビュー

デビュー当時の少女隊は、プロモーション費に30億円が使われたということが盛んに宣伝されていました。
実際に30億円のお金が使われたかどうか、あるいはどのように使われたのかは分かりませんが、少女隊のデビューはシングル『FOREVER〜ギンガムチェックstory〜』、12インチシングル『ESCAPE』、アルバム『少女隊Phoon』、ビデオ『少女隊Phoon』が同時に発売されるという過去に例がないような巨大プロジェクトで行われています。
デビュー2ヶ月後には写真集も発売されるのですが、これら全ての作品はアメリカで撮影・収録されており、少なくともロサンゼルス、ニューヨーク、地域不明の雪山、地域不明の砂漠地帯の4箇所で撮影されていたことが確認できます。
このように少女隊は、前例がないレベルのプロモーション費が使われていることは間違いありません。

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なぜ、新人アイドルグループに30億円ものプロモーション費が使われたのか?

1970年代後半には、キャンディーズやピンク・レディーといった国民的なアイドルグループが存在していました。
キャンディーズの解散コンサートは大きな話題となりましたし、ピンク・レディーは日本芸能史上最大のブームを起こしています。
そんなキャンディーズとピンク・レディーが1970年代終盤から1980年代初頭に解散し、1980年代前半は人気女性アイドルグループの空白期間が生まれます。
そういった影響から、1970年代終盤から1980年代前半の芸能界には、国民的な人気を得るような女性アイドルグループを作りたいという気概が渦巻いていたのでしょう。
しかし現実的にこの時期にデビューした女性アイドルグループは失敗続きで、キャンディーズ、ピンク・レディーの足元にも及びませんでした。
その結果生まれたのが、プロモーション費30億円をかけたアイドルグループ『少女隊』だったわけです。

今ではあまり考えられませんが、当時の芸能界はギャンブル的な要素が極めて強く、当たれば大儲け、外れれば破綻みたいな手法で商売をする人が多くいました。
1980年代まで(バブル崩壊まで)は日本の経済も右肩上がりだったので、失敗してもやり直せるチャンスは十分あり、こういったギャンブル的な勝負で商売を可能にしていたようです。

80年代のアイドルグループ一覧&メンバーまとめ
キャンディーズが1978年に、ピンク・レディーが1981年にそれぞれ解散してしまい、この2組の解散ショックからか、1980年代前半は女性アイドルグループがほとんど売れませんでした。 そんな1980年代も半ばとなった1985年に『お...

苦戦したアイドル活動

さて、30億円のプロモーション費をかけて大々的にデビューした少女隊ですが、思ったほど売り上げは伸びずにシングル曲の最高売上げは『Bye-Byeガール』の累計9.9万枚(オリコン最高順位13位)に留まります。
歌を披露する場所も『ザ・ベストテン』ではなく、いまいちヒットしていない歌手がよく出演していた『ひょうきんベストテン』のほうが多くなってしまいました。
全く売れていないわけではありませんでしたが、なにせプロモーション費30億円と謳って大々的にデビューしたわけですから、そのイマイチ感はより際立ってしまいます。

少女隊が所属したボンド企画には、

岡田奈々
大場久美子
杏里
松本伊代
高部知子
本田美奈子
新田恵利
福永恵規
相楽ハル子
高岡早紀

などの有名タレントが多数所属していましたが、結局、少女隊に使ったプロモーション費が負担となり1992年に破綻してしまいます。
それほど少女隊にかけたプロモーション費は莫大で、正に社運をかけた勝負だったわけです。

その後、ボンド企画に所属していたタレントは事務所を移籍しますが、本田美奈子だけは社長の高杉敬二が引き取り個人事務所という形で生涯サポートを続けました。

アイドルの所属事務所一覧
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海外での人気獲得

このように国内では派手に失敗したアイドルという印象が強い少女隊ですが、実は海外(アジア圏)では高い人気を得ることとなります。
特に台湾や韓国といった日本文化の影響が強い国では絶大な人気を獲得し、その後の台湾芸能界、韓国芸能界にも大きな影響を与えたそうです。
例えば、韓国では1988年に初となる女性アイドルグループ『セトレ』が誕生し、台湾でも1990年に名前もそのままの『少女隊』が誕生しています。
どちらのメンバー構成は3人組で、少女隊を模したアイドルグループであったと言われています。

ちなみに、台湾の少女隊には後に日本で大活躍をするビビアン・スーが在籍していました。Σ(゚Д゚)

台湾の妖精『ビビアン・スー』
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なぜ少女隊は失敗したのか?

デビューの際に30億円ものプロモーション費をかけたのにも関わらず、なぜ少女隊は成功しなかったのでしょうか?
この問題について、いくつかの項目に分けて考えていきます。

デビュー時の不運

少女隊は、デビューと同時に今でも販売されているスナック菓子『プリッツ』のCMに出演しています。
プリッツは女性アイドルがよく出演するCMとして知られており、事務所的にはこのCMを手がかりに一気に少女隊の知名度を上げるという戦略だったのでしょう。
しかし、その戦略は不運にも頓挫します。
理由はプリッツの販売元が江崎グリコだったからです??
なぜ江崎グリコだとダメなのかと思う人もいるでしょうが、当時はグリコ森永事件という日本中を震撼させた毒物混入事件があり、プリッツのCMが自粛されてしまったのです。
デビュー当時の少女隊はテレビ番組に出ない戦略をとっていたので、このCM自粛は大きな痛手となりました。

分散化する90年代アイドル①『CMガール』
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相次ぐ怪我

少女隊はデビューから1年が過ぎた頃にメンバーの怪我が相次ぎます。
まずはチーコが1985年8月に椎間板ヘルニアにより活動休止し、結局そのままグループ脱退となってしまいました。
更に同じ月にはレイコがドラマ撮影中に足をケガしてしまいます。
少女隊は1985年9月5日にザ・ベストテンにスポットライトとして初出演しているのですが、チーコは怪我による活動休止、レイコがケガで松葉杖という状態で出演し、アイドルとしての晴れ舞台のはずが、逆に不運続きでいまいち波に乗れないという負のメージを視聴者に植え付ける結果となりました。

人選

少女隊がデビューした当時は、大規模なアイドルオーディションが多数行われていました。
例えば、ホリプロは『ホリプロスカウトキャラバン』というオーディションを実施し、最盛期(井森美幸がグランプリを獲得した回)には112,358通の応募があったそうです。
その他にも、芸映は『HIDEKIの弟妹募集!!全国縦断新人歌手オーディション』で河合奈保子と石川秀美を選出しデビューさせています。
一方、少女隊については、このような大規模なオーディションを実施した形跡はありません。

個人的に少女隊が失敗した最大の要因は、人選にあったと思います。
デビュー時に30億円もプロモーション費にお金をかけるのなら、もっと人を選ぶところにお金をかけるべきだったのではないでしょうか?
ましてや1人のアイドルでなく3人のグループであるのなら、人選はなおのこと重要になるはずです。
少女隊の所属事務所(ボンド企画)は立て続けに所属アイドルをヒットさせていたので、誰であってもデビューさえすれば自分たちのプロデュース能力でなんとでもなるという奢りがあったように思います。
アイドルブーム全盛の1984年当時は一般人にまでアイドルを見る目が十分養っていたでしょうから、そんな小手先の考えで攻略出来るほどアイドル産業は甘いものでなくなっていたはずです。

結果、多くの人が少女隊からイマイチな雰囲気を感じとってしまい、結局最後までそのイメージから抜け出せなかったように感じます。

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その後の少女隊

その後もなんとか活動を続けていた少女隊でしたが、結局1989年に解散してしまいます。
この時期はアイドルブーム自体が終焉していく時代なので、解散も致し方なかったと言えるでしょう。

そんな解散から10年後の1999年、なんと少女隊は『1999少女隊』名義で限定復活します。
しかしメンバーの中で唯一『ミホ』は妊娠中のため参加できませんでした。
この点は、現役当時のタイミングが悪くイマイチ波に乗り切れない感じと変わっておらず、少女隊らしかったと言えば少女隊らしかったのかもしれません。(;^_^A

ミホ(藍田美豊)のその後

解散後に名前を何度か変えながら芸能活動を続けるも、結婚・妊娠を機に芸能界から離れた模様。
モデルの入夏は実娘である。

チーコ(市川三恵子)のその後

椎間板ヘルニアにより途中脱退したメンバーで、そのまま芸能界を引退した。

レイコ(安原麗子)のその後

現在も女優として活動中。
最近は吹き替えなどの声優としても活動している。
1999年10月21日に『子守歌… 』という曲でソロデビュー。

トモ(引田智子)のその後

チーコに変わって途中加入したメンバーで、初代引田天功の娘である。
解散後は女優、歌手、タレント、声優などとして幅広く活動したが、1999年に結婚をして芸能界を引退。
1997年2月21日に『引田とも子withばびっと隊』名義で歌手デビュー(曲名:DAIJO-BU)している。

私の好きな少女隊楽曲

私が1番好きな少女隊の楽曲は、

FOREVER〜ギンガムチェックstory〜

です。
この曲は少女隊のデビュー曲ですが、30億円のプロモーションをかけただけあって曲はとても良かったと思います。

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少女隊のオススメ商品

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アンケート

2023年4月、ブログのリニューアルに伴いアンケートを新しいものに差し替えました。
投票数はリセットされているので、過去に投票した人も再びの参加をお待ちしております。
※60組以上から選択可能な本格的なアンケートは『こちらのページ』から!
20世紀を代表するアイドルグループと言えば?(簡略版)

選択肢が足りない(増やす)
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※こちらのアンケートは簡略版です。以下で示す『完全版』が本番のアンケートになりますので、そちらでの投票もお願いします。

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