前回まで、SUPER MONKEY’S(安室奈美恵、MAX)、SPEED、モーニング娘。と、3回連続で1990年代後半の音楽シーンを席巻したアイドル/アーティストの記事を書いてきましたが、今回はこの時代を語る上で絶対に欠かせない1人の女性アーティストについて記事にしていきます。
そのアーティストとは、言わずもがな宇多田ヒカルのことです。
※宇多田ヒカルはアイドルではないので、コラム記事として紹介します。
※ちなみにアイドルではないアーティストの個別記事を書くのは、宇多田ヒカルと藤圭子だけになる予定です。
宇多田ヒカルプロフィール
生年月日 | 1983年1月19日 |
芸能界入り | 藤圭子と宇多田照實の娘として、幼いころから音楽スタジオ入りしていたらしい |
CDデビュー | 1998年12月9日(Automatic/time will tell)※ ※宇多田ヒカル名義以前の活動は以下参照 |
主要音楽祭受賞歴 (最優秀新人賞) | - |
主要音楽祭受賞歴 (大賞) | 1999年度日本ゴールドディスク大賞アーティスト・オブ・ザ・イヤー 2002年度日本ゴールドディスク大賞アーティスト・オブ・ザ・イヤー |
ゴールデン・アロー賞 受賞歴 | - |
主要映画賞受賞歴 (主演賞、助演賞、新人賞) | - |
ドラマアカデミー賞受賞歴 (主演賞、助演賞、新人賞) | - |
紅白歌合戦出場回数 ((2023年まで)年まで) | 1回 |
代表曲 ()内はオリコン最高順位 | 98年:Automatic(2位) 99年:Movin’ on without you(1位) 99年:First Love(2位) 99年:Addicted To You(1位) 00年:Wait&See 〜リスク〜(1位) 00年:For You(1位) 01年:Can You Keep A Secret?(1位) 01年:FINAL DISTANCE(2位) 01年:traveling(1位) 02年:光(1位) 02年:SAKURAドロップス(1位) 03年:COLORS(1位) 06年:This Is Love(アルバム曲) 07年:Flavor Of Life(1位) 07年:Beautiful World(1位)※両A面 07年:Kiss & Cry(1位)※両A面 09年:Come Back To Me(圏外)※1 12年:桜流し(配信限定) 16年:花束を君に(配信限定) 他多数 ※1、アメリカ向け楽曲なのでビルボードチャートを記載 |
宇多田ヒカルのデビュー前夜
話を整理するため、少し宇多田ヒカルのデビューに関わる話を先にします。
宇多田ヒカルのデビュー曲は『Automatic』と思っている人も多いでしょうが、彼女は宇多田ヒカルとして世に出る前から活動を始めています。
まず、両親との3人ユニットとして『U3』を結成し1993年9月17日に『STAR』というアルバムを出します。
その後、宇多田ヒカル個人で『cubic U』を名乗り、1995年2月3日に『Rainy Day』というシングル曲をインディーズレーベルから海外向けに発売し、日本では『藤圭子 with cubic U』名義で『冷たい月 〜泣かないで〜』を1996年9月25日に発売しています。
宇多田ヒカルは1983年1月19日生まれですから、『STAR』のときは10歳、『Rainy Day』のときは12歳です。
このように宇多田ヒカルが若い時から音楽の才能に目覚めていたのは、両親、特に母親の過剰なまでの英才教育があったからと言われています。
ちなみに宇多田ヒカルの両親は、父親が音楽プロデューサーの宇多田照實で、母親が演歌歌手の藤圭子であることは周知の事実です。
しかし、これらの楽曲は特にプロモーション活動もなく、全く話題にもなりませんでした。
ただ、宇多田ヒカルがcubic Uとして活動していた最終盤に、1度だけテレビ出演をしています。
それはNHK-BSで放送されていた『真夜中の王国』という番組で、若く才能のあるアーティストとしてcubic Uが取り上げられていました。
その後、宇多田ヒカル名義になり、まだ『Automatic/time will tell』を発売していない時期に、開設間もないInterFMと、北海道と福岡限定のFMラジオ局で自身の冠番組も持っていたそうです。(デビュー後まもなく両番組とも終了)
このように宇多田ヒカルは『Automatic』発売以前から、芸能活動・音楽活動を行っていましたが、いずれにせよ世に出てると言えるようなものではなく、基本的に世間の人が宇多田ヒカルの存在を知るのは、宇多田ヒカル名義のデビューシングルである『Automatic/time will tell』以降であり、『Automatic』が宇多田ヒカルの実質的なデビュー曲であると思っていただいて問題ありません。
ということで、以下『Automatic』を宇多田ヒカルのデビュー曲として扱い記事を書いていきます。
衝撃のデビュー
私が宇多田ヒカルを初めて見たのは、深夜のテレビで流れる『Automatic』のPVでした。
『随分とアメリカナイズされた歌手で、日本にもエンターテインメントの本場であるアメリカで勝負できる歌手が出てきたな』というのが、私が初めて宇多田ヒカルを見たときの感想で、このPVだけでも十分衝撃に値するものでした。
しかし、この『Automatic』と宇多田ヒカルが次第に話題になってくると、彼女についての衝撃的な事実が次々と発覚していきます。
私が宇多田ヒカルについて2番目に感じた衝撃は、(当時の)15歳という年齢です。
15歳が歌手デビューすることにはそんなに驚きはありませんが、『Automatic』のPVで歌っていた人が15歳とはとても思えませんでした。
続いて衝撃的だったのは、作詞作曲を自分自身で行っているということです。
以下で示す『Automatic』の歌いだしの歌詞をご覧ください。
七回目のベルで受話器を取った君 名前を言わなくても声ですぐ分かってくれる
引用:曲名『Automatic』、作詞・作曲『宇多田ヒカル』
正直この一節だけみても、とても15歳の書く詞とは思えず、こんな天才少女が本当に実在するのかと驚いた次第です。
そして最後に受けた衝撃は、宇多田ヒカルが伝説的な歌手である藤圭子の娘であるという事実でした。
宇多田ヒカルと藤圭子のデビューのどちらが衝撃的だったかということはよく議論されますが、私は僅かに宇多田ヒカルのほうが衝撃的なデビューだったと思います。
その僅かな部分とは、私が4番目に衝撃を受けた宇多田ヒカルが藤圭子の娘であるという点で、この事実がなければ両者のデビューは甲乙つけがたい衝撃度だったことでしょう。
ファーストアルバムが700万枚を超える大ヒット
宇多田ヒカルのデビューシングル『Automatic/time will tell』は200万枚を超えるヒットとなりましたが、それ以上に凄かったのが翌年(1999年)の4月28日に発売された1stアルバム『first love』で、このアルバムは767万枚※という日本のレコード/CDにおける歴代最高の売り上げを記録します。
※『first love』は、アメリカ以外の国でもっとも売れたレコード/CDになると思われる。
当時はCDがとても売れる時代で(シングルは1997年、アルバムは1998年がCD売り上げのピーク)、様々なアーティストが今まででは考えられないようなアルバムのセールスを記録していましたが、そのほとんどは販売数の伸びやすいベストアルバムでした。
一方、宇多田ヒカルの『first love』はデビューアルバムであり、当然ベストアルバムのような類のものではありません。
デビューアルバムでこれだけの枚数を売り上げたということは、当時の日本人は宇多田ヒカルという歌手に無限の可能性を感じていた表れといえるでしょう。
テレビ出演
今でこそ宇多田ヒカルがテレビに出ることはそんなに珍しいことではありませんが、デビュー当時の宇多田ヒカルはテレビに一切出演していませんでした。(上記した真夜中の王国の話は除く)
しかし1999年6月18日、ミュージックステーションにて初めてのテレビ出演を果たします。
このときのミュージックステーションの視聴率は歴代最高となる26.5%で、瞬間最高視聴率33.6%もレギュラー放送としては最高記録となっています。(レギュラー放送を問わない瞬間最高視聴率の最高記録は300回記念スペシャルのCHAGEのトークシーンで、宇多田ヒカルの登場回は歴代2位)
更に翌週の『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』にも出演し、こちらも番組史上最高の28.5%という視聴率を記録します。
この二番組における会場のざわつきは明らかに異常で、上記した視聴率からみても、こういったざわつき感は日本全体に広がっていたものと思われます。
このように、当時は宇多田ヒカルに関する話題が国民的な関心事となっていたのです。
その後もヒット曲
宇多田ヒカルは、デビューシングル『Automatic/time will tell』やデビューアルバム『first love』以降も、当然のようにヒットを重ねていきます。
アルバムでは、4作目(4作目はベストアルバム)まで全て300万枚以上の売り上げを誇り、全てその年の年間1位売り上げを記録しています。
特に木村拓哉主演のフジテレビ月9ドラマ『HERO』の主題歌となった7thシングル『Can You Keep A Secret?』は、大きな反響を呼び起こしました。
木村拓哉と松たか子のゴールデンコンビに宇多田ヒカルの楽曲というセットは、当時の日本芸能界にできる最高峰の組み合わせだったに違いありません。
宇多田ヒカルのライバルは浜崎あゆみ?
宇多田ヒカルと同時期に活躍していた浜崎あゆみは、宇多田ヒカルのライバルとして扱われることがよくあります。
女性ソロシンガーのシングルの総売り上げでは、
1位:浜崎あゆみ
2位:安室奈美恵
3位:松田聖子
4位:宇多田ヒカル
※宇多田ヒカルと松田聖子は、ほとんど差がないので逆転しているかもしれません
※浜崎あゆみと安室奈美恵の間にZARDがいるが一応ユニットなので外している
と、浜崎あゆみに軍配が上がりますが、音楽的な評価は宇多田ヒカルのほうが遥かに高かったと個人的には思います。
ここで、1つ宇多田ヒカルと浜崎あゆみに関するエピソードを話しましょう。
宇多田ヒカルは、『Flavor Of Life』を発売した際にミュージックステーションで浜崎あゆみと共演するのですが、浜崎あゆみは1人ではまともに歩けないようなドレスを着て出演したのに対し、宇多田ヒカルはパーカーにハーフ丈のジーンズというとてもラフな姿での出演でした。
浜崎あゆみは、ファッションはもちろん、あらゆるものを複合しCD売り上げに反映させる傾向が強かったのですが、宇多田ヒカルは歌だけで勝負する傾向の強い歌手です。
宇多田ヒカルが、早くからCD販売よりもネット配信のほうに主力を置いていたことも、純粋に歌だけで勝負することの表れと言えるでしょう。(このことがCD売り上げが少なくなる原因にもなっている)
宇多田ヒカルが日本の音楽シーンに与えた影響
宇多田ヒカルがデビューする直前の日本の音楽業界は、小室哲哉ファミリー全盛の時代であり、小室哲哉にプロデュースされたアーティストたちが乱立していました。
1996年4月15日付けのオリコンシングルチャートでは、1位から5位まで小室哲哉プロデュース作品が並び、ついに小室哲哉は日本全体の長者番付で4位を記録するほどのお金を稼ぎだすことに成功します。
そんな小室哲哉ブームを、たった1人で終わらせてしまったのが宇多田ヒカルであり、彼女のデビューはそれほど衝撃的だったのです。
小室哲哉にプロデュースされたアーティストも、決してレベルが低かったわけではありませんが、宇多田ヒカルという“本物”を見てしまった後ではとても受け入れられない音楽となり、市場から一掃される形となります。
続いて宇多田ヒカルデビュー後の影響についても考えていきましょう。
宇多田ヒカルがデビューしておよそ1年後に倉木麻衣がデビューするのですが、この倉木麻衣と宇多田ヒカルは異常に似てると話題になりました。
私自身、倉木麻衣の曲を始めて聴いた際は、宇多田ヒカルが歌っているのかと耳を疑ったほどです。
しかし、今になって宇多田ヒカルの曲と倉木麻衣の曲を聴き比べてみると、そこまで似ていないのです。
これは、当時の日本人の耳が宇多田ヒカルが歌うようなR&Bに慣れていなかっただけと考えられます。
このことは、一般人からすればほとんど同じにしか見えない動物園の猿が、毎日世話をしている飼育員にはすぐに見分けられることと同じで、慣れていないものは、かなり広い範囲で同じように見えたり聞こえたりしてしまうのです。
これが意味することは、倉木麻衣に限らず宇多田ヒカルのデビュー以降は、宇多田ヒカルが切り開いたジャンルを追随するアーティストが続々と誕生したということです。
宇多田ヒカルのデビュー後は、今までのシンガーソングライターとは明らかに違うタイプの、自分の思いを自分の声で伝える女性アーティストたちが増えていきます。
このことは、歌手やミュージシャンと呼ばれていた人が、アーティストへと変貌していったことを意味しているのかもしれません。
アメリカデビューするも・・・
宇多田ヒカルは、2009年にエンターテインメントの最高峰であるアメリカへ本格的な進出を図ります。
子供のころからアメリカと日本を行ったり来たりの生活で、また日本ではアメリカンスクールに通う宇多田ヒカルは、日本人でありながらどちらかと言えばアメリカ人的な感覚の持ち主で、英語も完璧に使いこなすことができました。
そんな宇多田ヒカルがアメリカ進出することはある意味必然であり、日本人の多くが“宇多田ヒカルなら”アメリカでも成功できると考えていたと思います。
しかし結果は惨敗で、アメリカのオリコンチャートにあたるビルボードチャートでは、アルバム『This Is The One』が最高69位、シングルカットされた『Come Back To Me』は圏外と期待した活躍はできませんでした。
もし、宇多田ヒカルが日本でデビューしてすぐ本格的にアメリカ進出していたら、などと考える人も多いことでしょう。
私自身そんなことを考えていた時期もありますが、おそらく宇多田ヒカルは日本で見聴きするからこそ凄さが際立つのであって、アメリカに行ったら大勢いるであろう才能持ったアーティストの1人としか見なされないのかもしれません。
当然、15歳や16歳の時点で本格的なアメリカ進出をしていれば、それなりに話題になったでしょうが、アルバム売り上げ700万枚を超えるようなヒットは難しいと思われます。
であるのなら、日本で勝負したほうが正解だったのかもしれません。
活動休止
宇多田ヒカルは人間活動を理由に2011年より活動を休止します。
宇多田ヒカルとしてデビューしておよそ12年での活動休止で、これは母親の藤圭子が最初に引退するまでの活動期間である11年3か月とほぼ同じとなります。
活動休止を決めた宇多田ヒカルの心境は分かりませんが、自分自身があまりにも大きな存在になっていたり、また私生活で離婚を経験したことで、いろんなことに疲れてしまったのかもしれません。
しかし、私は宇多田ヒカルが日本の宝だと確信的に思っていたので、このまま引退することだけは避けてほしいと毎日のように願っていました。
活動再開後の宇多田ヒカル
2016年に活動再開した宇多田ヒカルの最初の楽曲は、NHKの連続テレビ小説『とと姉ちゃん』の主題歌『花束を君に』でしたが、この曲を始めて聴いたとき、私は宇多田ヒカルが歌っているとすぐに理解ができませんでした。
宇多田ヒカルといえば、アメリカナイズされた曲や歌い方が特徴でしたが、『花束を君に』にはそういった特徴が全くなく、日本の楽曲になっていたのです。
宇多田ヒカルは、デビュー前に出演した真夜中の王国では、日本の音楽(J-POP)を強く否定する発言を行い、NHK紅白歌合戦に関しては観たことがないとまで言っていました。
そんな彼女が、いかにも日本っぽい歌を歌い始めたのです。
このことは、ひょっとしたら私が宇多田ヒカルに感じた最大の衝撃だったかもしれません。
私の好きな宇多田ヒカル楽曲
私の好きな宇多田ヒカルの曲は、
『Flavor Of Life』
です。
この曲は、宇多田ヒカルがデビューして8年が過ぎ、人気も落ち着きややもすると過去の人になりかねない状況で出された楽曲でしたが、見事に“宇多田ヒカルここにあり”という存在感を見せつけることになります。
宇多田ヒカルの凄さを再確認したのは私だけではなかったようで、『Flavor Of Life』は、当時のデジタル配信シングルとして世界1位の売り上げを記録することになるのです。
宇多田ヒカルの動画(公式)
クイズ
只今制作中・・・少々お持ちください。m(_ _)m
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