松田聖子プロフィール
生年月日 | 1962年3月10日 |
芸能界入り | ミスセブンティーンコンテストからのスカウト |
キャッチフレーズ | 抱きしめたい! ミス・ソニー |
レコードデビュー | 1980年4月1日(裸足の季節) |
主要音楽祭受賞歴 (最優秀新人賞) | 1980年日本歌謡大賞放送音楽新人賞(青い珊瑚礁) 1980年日本テレビ音楽祭優秀新人賞(青い珊瑚礁) 1980年ABC歌謡新人グランプリ 1980年新宿音楽祭金賞 |
主要音楽祭受賞歴 (大賞) | 1982年FNS歌謡祭グランプリ(野ばらのエチュード) 1983年全日本歌謡音楽祭ゴールデングランプリ(ガラスの林檎) |
ゴールデン・アロー賞 受賞歴 | 1980年音楽新人賞 1983年音楽賞 1985年話題賞 ※神田正輝と2人で受賞 |
主要映画賞受賞歴 (主演賞、助演賞、新人賞) | - |
ドラマアカデミー賞受賞歴 (主演賞、助演賞、新人賞) | - |
紅白歌合戦出場回数 (2024年まで) | 24回 ※身内の不幸による辞退が1回 |
代表曲 ()内はオリコン最高順位 | 80年:青い珊瑚礁(2位) 80年:風は秋色(1位) 81年:チェリーブラッサム(1位) 81年:夏の扉(1位) 81年:白いパラソル(1位) 81年:風立ちぬ(1位) 82年:赤いスイートピー(1位) 82年:渚のバルコニー(1位) 82年:野ばらのエチュード(1位) 83年:秘密の花園(1位) 83年:天国のキッス(1位) 83年:ガラスの林檎(1位)※両A面 83年:SWEET MEMORIES(1位)※両A面 83年:瞳はダイアモンド(1位) 84年:Rock’n Rouge(1位) 85年:天使のウィンク(1位) 87年:Strawberry Time(1位) 88年:抱いて…(アルバム曲) 92年:きっと、また逢える…(4位) 93年:大切なあなた(7位) 96年:あなたに逢いたくて ~Missing You~(1位) 他多数 |
目次
2、松田聖子は70年代アイドル?
3、正統派アイドルの系譜
4、松田聖子の功績
5、80年代アイドルの頂点
5-1、人気
5-2、デビュー時期
5-3、デビュー時の年齢
6、もし松田聖子が久留米でなく東久留米に住んでいたら?
7、もし松田聖子が存在していなければ・・・
8、お騒がせタレント
9、松田聖子の代表曲は?
10、私の好きな松田聖子楽曲
11、松田聖子の動画(公式)
12、クイズ
13、松田聖子楽曲の人気投票&ランキング
14、ホームページ・SNS
15、関連記事
松田聖子は70年代アイドル?
松田聖子は、1980年代のアイドル歌手というイメージがあり実際にその通りなのですが、実は、芸能界デビューは1979年の秋に放送開始されたドラマ『おだいじに』への出演で、このドラマでは路線バスの旅で有名な太川陽介とのキスシーンもありました。
松田聖子の歌手デビューは1980年代なので80年代アイドルという括りで合っているのですが、この『おだいじに』への出演は松田聖子における1970年代の貴重な芸能活動となっています。
また『松田聖子』という芸名はこのドラマの役名だったのですが、このことは知らない人も多いようです。
正統派アイドルの系譜
松田聖子は、アイドル歌手の元祖である天地真理、天性のアイドルであった桜田淳子などに続く正統派アイドルの系譜であり、その頂点に位置する存在です。
改めて振り返ってみると、中森明菜がレコード大賞を受賞した『ミ・アモーレ』を歌いアイドル歌手からの脱却を模索し始めていた時期に、松田聖子は『天使のウィンク』というバリバリのアイドルソングを歌っており、正統派アイドルの本筋を突き進んでいたことがわかります。(松田聖子は中森明菜より4歳年上である)

松田聖子の功績
松田聖子以前のトップアイドルは、アイドル歌手としての全盛期が短い傾向にあります。
天地真理は、1971年10月1日のデビュー曲『水色の恋から』がオリコンチャート3位で、以降もトップ10入りを続けていましたが、1974年12月10日の12枚目のシングル曲『木枯らしの舗道』では14位まで落ち、後は下がる一方でした。
14歳でデビューした桜田淳子は、1973年8月25日発売の3枚目のシングル曲『わたしの青い鳥』でレコード大賞最優秀新人賞を獲得しましたが、1978年2月25日発売の22枚目のシングル曲『追いかけてヨコハマ』でオリコンチャート11位まで落ち、以降は天地真理と同様に下る一方でした。
キャンディーズは、1975年2月21日に発売した5枚目のシングル曲『年下の男の子』が初ヒットとなりましたが、1977年7月17日には解散を宣言します。
ピンクレディーは、1976年8月25日に発売したデビュー曲『ペッパー警部』からすぐにブレークしますが、1980年9月1日に解散を宣言、そのときは既に人気が低迷していました。
以上のように、70年代アイドルはアイドル歌手としての活動が短く、早い段階で引退や本格的な歌手や女優に転身するのが定番だったのです。
70年代アイドルで比較的長く活躍したのは山口百恵ですが、彼女の場合は元々アイドルっぽい歌は歌っていませんでしたし、特に作詞家・作曲家が変わった13枚目の『横須賀ストーリー』以降は、アイドルというより本格的な歌手という扱いになっていました。
しかし松田聖子は、いかにもアイドルっぽい歌を長く歌い続け、更にヒットも続きます。
結婚・出産後の1987年4月22日に発売した23枚目のシングル曲『Strawberry Time』ですら、まだまだアイドルっぽい歌だったほどです。
このように松田聖子は、1980年代に渡ってアイドル活動を続け、身をもってアイドル歌謡を世間に認めさせていったのです。
その結果、1980年代はアイドル全盛期と呼ばれるほどの加熱したアイドルブームが生まれていくのでした。
80年代アイドルの頂点
松田聖子が80年代アイドルの象徴として広く扱われていることに疑いの余地はないでしょう。
では、なぜ松田聖子が80年代アイドルの象徴であり頂点として扱われているのか?
人気や実力があったことは当然ですが、それだけでは説明できない部分もあるので、以下で少し考えていきたいと思います。
人気
1980年代の松田聖子は、1980年から1988年までなんと24作連続でオリコンチャート1位を獲得するという圧倒的の人気を誇りました。
これは当時の最高記録で、松田聖子と人気を二分した80年代アイドルの中森明菜が記録した15作連続より9作多くなっています。
デビュー時期
松田聖子のデビューは1980年の4月1日であり、世間的に名前が知られている80年代女性アイドルの中では1番早い部類のデビューとなります。
※強いて松田聖子よりデビューが早い人をあげるなら、1980年の2月21日デビューの岩崎良美ぐらいである。
デビュー時の年齢
アイドルのデビューは14歳から18歳程度(学年で言えば中学3年生から高校3年生)となっていていますが、松田聖子のデビューはちょうど高校を卒業し大学生や社会人となる18歳の4月1日でした。
これはアイドルのデビュー年齢としてはかなり遅い部類に入ります。
そのため、1980年代以降に歌手デビューした有名な女性アイドルの中で松田聖子より年上の人は1人もいません。(岩崎良美は同学年)
つまり、松田聖子は人気も然ることながら、1980年代の女性アイドルの中でデビュー時期がもっとも早く、年齢ももっとも上なわけです。
これぐらいの年代の人にとって1歳(1学年)の年齢差がとてつもなく大きな意味を持つことは、多くの日本人が共感できることでしょう。
人気・実力は当然のこと、日本人特有ともいえる先輩・後輩という側面からみても松田聖子は1980年代の女性アイドルの頂点であったため、後からデビューした80年代アイドルたちの精神的支柱や象徴になり得たのだと思われます。
また1970年代後半にデビューした有名なアイドルはデビュー年齢が高めで、70年代アイドルで松田聖子より年下の人もほとんどいないことも、70年代アイドルと80年代アイドルを綺麗に差別化する手助けになりました。(松田聖子の登場により駆逐されたのかもしれないが)
もし70年代アイドルの中に松田聖子より年下の人気アイドルがいて、デビュー期と年齢による先輩後輩が逆転していたら、ギクシャクして80年代アイドルはあそこまでのブームにならず終わっていたかもしれませんし、70年代アイドルと80年代アイドルの境目が曖昧で『80年代アイドル』なんて言葉も定着しなかったかもしれません。
このような偶然とも必然ともいえる産物によって、松田聖子は80年代アイドルの象徴・頂点として君臨することとなりました。
もし松田聖子が久留米でなく東久留米に住んでいたら?
東久留米市(東京都)というのは松田聖子の出身地である久留米市(福岡県)になぞっているだけですが、もし松田聖子が東京近郊に住んでいたら後のアイドル界は大きく変わっていたかもしれません。
何を言っているのかと思うかもしれませんが、これはかなり興味深い話になるはずです。
もし松田聖子が東京近郊に住んでいた場合に何が起こったかというと、まず間違いなくデビュー時期が早まったということです。
松田聖子は1977年頃からアイドル関連のオーディションを受け始め芸能関係者の目に留まるのですが、出身地が福岡県久留米市ということもあって、本格的な芸能活動は高校卒業を待つこととなります。(高校3年生の夏に上京)
この制限が東京近郊に住んでいたらなくなるので、おそらく松田聖子は15歳から17歳あたりにデビューしていたことでしょう。
年数にすると1977年から1979年です。
もしこの時期に松田聖子がデビューしていたら、松田聖子はアイドルとしてブレイクしていなかったかもしれません。
1970年代終盤、特に1977年から1978年のアイドル界はピンク・レディーの勢いが凄すぎて、他の女性アイドルがブレイクすることはありませんでした。
榊原郁恵(1977年1月1日デビュー)のシングルレコード最高チャートは『夏の思い出』の11位、石野真子(1978年3月25日デビュー)のシングルレコード最高チャートは15位と、想像以上にアイドルとしてブレイクしておらず、早い段階でタレント業へ転身しています。(石野真子は結婚した影響もあるが)
そのピンク・レディーの人気が1979年から急落し1981年3月31日解散、唯一のピンク・レディーに対抗出来る存在であった山口百恵も1980年10月結婚・引退します。
こういったアイドルの空白期間に松田聖子がパッと登場したからこそ、松田聖子は大きな人気を得て、後の80年代アイドルブームは起こっていくわけです。
また『80年代アイドルの頂点』の項目で書いた人気面以外での松田聖子が80年代アイドルの頂点である由縁が、1970年代にデビューしているとかなり薄れてしまうので、80年代アイドルという分かりやすい括りは出来なかったかもしれません。
このように、松田聖子が福岡県久留米市に住んでいたが故にデビューが遅れたという事実は、後のアイドル界にとって極めて重要なことなのです。
おそらく松田聖子が久留米市でなく東久留米市に住んでいたら、1980年代のアイドルブームは起こっておらず、後のアイドル界は全く別なものになっていたことでしょう。
もし松田聖子が存在していなければ・・・
そもそもの話として、松田聖子がこの世に存在してなければ、後のアイドル業界はどうなっていたのか?
このことについても少し考えてみたいと思います。
上記したとおり、1977年から1978年はピンク・レディーの勢いが凄まじかったわけですが、ではピンク・レディーの一体何が優れていたのでしょうか?
容姿がずば抜けて可愛かった?
歌がずば抜けて上手かった?
曲がずば抜けて良かった?
いずれの答えも『ノー』です。
ハッキリ言うと、ピンク・レディーがなぜあそこまで流行ったのかについて明確な答えはありません。
この理由不明の一大ブームを新興の芸能事務所所属の新人アイドルが成し遂げた影響で、1970年代終盤はピンク・レディーに続けと様々な人が女性アイドル業界へと参入してきます。
しかし、明らかな優れた部分があってピンク・レディーのブームが起きたわけでもないので、当時のアイドルは総じてレベルが高くありませんでした。
明らかに質の低下したアイドルたちに夢中になるほど日本人もバカではありません。
結果、1970年年代末期のアイドル界は盛り下がり、ピンク・レディー自身もあっという間に人気を落としてしまいます。
1978年12月5日発売の『カメレオン・アーミー』でオリコン1位を獲得して以降、4位→6位→4位→19位→14位とオリコン最高順位は下降し、ちょうど1年後の1979年12月5日発売の『DO YOUR BEST』では36位まで順位は低下する。
こういった現象に対し芸能界も危機感を感じていたようで、1979年のゴールデン・アロー賞新人賞は受賞者なしという結果になっています。
つまり、松田聖子があのタイミングで登場していなければ、アイドルブームは1970年代で終了していた可能性が極めて高いのです。
そして松田聖子の優れているところは何でしょうか?
容姿がずば抜けて可愛かった?
歌がずば抜けて上手かった?
曲がずば抜けて良かった?
いずれの答えも『イエス』です。
松田聖子は、誰にでも分かるようなアイドルとしての能力の高さを持ち合わせていました。
このアイドルとしてのレベルが極めて高い松田聖子が登場したことにより、質の低下した1970年代終盤のアイドルは一掃され、1980年代のアイドル界は大いに盛り上がるのです。
松田聖子がいなければ、中森明菜も小泉今日子もアイドルとして日の目を見ていないでしょうし、薬師丸ひろ子は普通に女優として活動をしていたはずです。
おニャン子クラブも当然誕生せず、秋元康は放送作家としてのみ存在しAKB48や乃木坂46も生まれなかったと思われます。
コンテストの際に踊った変なダンスを30年以上イジられ続けるようなタレントも現れることはなかったでしょうw
以上のように、松田聖子がいなければ日本の芸能界は全く別のものになっていた可能性が高く、それほど松田聖子が存在した意味は大きかったわけです。

お騒がせタレント
80年代アイドルの頂点を極めた松田聖子ですが、アイドルとして完璧だったかというと相当の疑問符が付きます。
1985年、松田聖子は郷ひろみとの破局宣言をした1ヶ月後に、神田正輝との結婚を決めるというファンにとって衝撃的な形で婚約を発表しました。
その後も不倫や離婚を繰り返し、1980年代後半以降はお騒がせタレントのような一面でメディアを騒がすことが多くなります。
しかし、それでも地に落ちなかったところが松田聖子の凄いところです。
当時は女性の地位向上が叫ばれていた時代ということもあってか、松田聖子のスキャンダラスな部分も女性を中心に認められ『松田聖子的な生き方』として支持されていきました。
そして1996年、35歳になりアイドルから完全に脱却した時期に発売したシングル『あなたに逢いたくて ~Missing You~』でミリオンセラーを達成するのでした。
※80年代アイドルでミリオンセラーのシングルを輩出したのは、小泉今日子、中山美穂に続く3人目の快挙だった。

松田聖子の代表曲は?
松田聖子には、ヒット曲が多数あります。
これは疑いようのない事実ですが、しかし松田聖子はヒット曲があまりにも多すぎて代表曲が絞れないという問題が同時に発生しています。
ファンの間で松田聖子の代表曲を1曲に絞れと言われたら、
やっぱり『赤いスイートピー』でしょ。
いやいや『青い珊瑚礁』だよ。
1番売れた『あなたに逢いたくて〜Missing You〜』だ。
80年代で1番売れたのは『ガラスの林檎』だぞ。
それはB面曲『SWEET MEMORIES』のおかげだろ。
なんて議論が起こり、結局1曲に絞り切ることは難しいかと思います。
同じ80年代アイドルの中森明菜もヒット曲は多いですが、彼女の場合は日本レコード大賞を受賞しているので、それなりに代表曲を絞り込むことが可能です。
松田聖子も1982年にFNS歌謡祭グランプリを受賞していますが、このときの楽曲『野ばらのエチュード』を松田聖子の代表曲とするのは説得力に欠けるでしょう。
以上のことから、1980年代を代表する歌手を10人挙げろと言われれば松田聖子は確実に選ばれるでしょうが、1980年代の代表曲を10曲挙げろと言われても松田聖子の曲は入らないかもしれません。
ヒット曲がありすぎるために人気が分散してしまい、それがゆえに代表曲がないというのは、なんとも皮肉な感じがしますね。

私の好きな松田聖子楽曲
私の好きな松田聖子の楽曲は2つあります。
1曲目は、
『SWEET MEMORIES』
です。
松田聖子の楽曲と言えば王道のアイドルソングが多いのですが、私はそれらの歌はあまり好きではなく松田聖子の歌うバラード曲が好きなのです。
この『SWEET MEMORIES』は、ペンギンのアニメーションで描かれるサントリービールのCM楽曲として使われ話題となりました。
当初このCMは歌手名を隠していたのですが、それが却って話題となり日本中がペンギンブームになるというわけの分からない社会現象まで起きます。
このような状況もあって、元々『ガラスの林檎』のB面曲だった『SWEET MEMORIES』は、すぐに両A面として再販売されました。
2曲目は、
『抱いて…』
です。
『抱いて…』は、グラミー賞を何度も受賞しているデイヴィッド・フォスターが作曲した楽曲で、アルバム曲なのですがファンにとってはとてもよく知られており、とても人気があります。
また、詞がスキャンダラスな形で結婚し母親となった松田聖子にぴったりなところも有名です。
松田聖子の楽曲の中から強いてアイドルっぽい楽曲を1つ選べと言われたら、私は『Rock’n Rouge』を選びます。
この曲は、サビに入る前に今までの曲の流れを完全に止めるところが面白くて好きです。(^_^;)
アイドル脱却後の楽曲なら『大切なあなた』がお気に入りです。
松田聖子の動画(公式)
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・80年代アイドルの記事一覧
2017年05月07日:記事の作成
2019年08月28日:ブログの移転
2020年10月13日:『もし松田聖子が久留米でなく東久留米に住んでいたら?』の項目を追記
2020年12月30日:『もし松田聖子が存在していなければ・・・』の項目を追記
2022年02月23日:SNS情報の記載、動画の埋め込み
2023年04月05日:アンケート内容の変更
2024年01月04日:オススメ商品の削除
コメント
『SWEET MEMORIES』この曲が大好きです。
サイト制作中かつアクセス数7件の段階でコメントが来てビックリです。(^_^;)